『聖なる犯罪者』そしてダニエルは、司祭トマシュになった。

『聖なる犯罪者』を観ました。ポーランドの映画です。監督はヤン・コマサ。
ポーランドのアカデミー賞で11部門に輝き、2019年アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされるなど、世界中の映画祭で一大センセーションを巻き起こした注目作だそうです。
客席かなり埋まってました。
『聖なる犯罪者』 概要
監督:ヤン・コマサ
脚本:マテウシュ・パツェヴィチ
撮影:ピョートル・ソボチンスキ Jr
編集:プシェミスワフ・フルシチェレフスキ
プロダクション・デザイン:マレク・ザヴィエルハ
衣装:ドロタ・ロクピュル
サウンド・デザイン:カツペル・ハビシャク
マルチン・カシンスキ
トマシュ・ヴィチョレク
音楽:ガルぺリン・ブラザーズ
出演
ダニエル:バルトシュ・ビィエレニア
マルタ:エリーザ・リチェムブル
リディア:アレクサンドラ・コニェチュナ
ピンチェル:トマシュ・ジィェンテク
バルケビッチ:レシェク・リホタ
トマシュ:ルカース・シムラット
配給 ハーク
制作国 ポーランド=フランス(2019)
年齢制限 R-18
上映時間 115分
公式サイト http://hark3.com/seinaru-hanzaisha/
『聖なる犯罪者』 原題は Boże Ciało 意味は「キリストの体」

主人公はポーランドの少年院に入っていました。
冒頭、少年院の木材加工の授業をしています。すこし看守が目を離したスキに見張りを立て、木材加工をしていたある少年を数人で羽交い締めにして、教室の机の引き出しと机の間に男の金玉を挟んでぎりぎりと引き出しを押し込むという、男からすれば痛そうで見ていられないショッキングなシーンから始まります。
そこで監視役をしている男が、主人公ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)です。
彼が口笛を吹いて看守が近づいていることが分かり、制裁?は途中で終わるのですが、もう少し看守が来るのが遅ければ彼の金玉は使い物にならなくなっていた可能性は高いです。
痛みに顔を歪め、涙でグシャグシャになりながら木材加工の作業に戻る彼を見せられるとどれだけ少年院は絶望的場所なのかはっきりと理解させられます。
のっけから少年院は容赦なく無法地帯であるということがしっかりと示されるのです。
こんなとこ、一度出たら二度と帰りたくないですよね。
主人公は少年院で司祭になりたいと相談をするのですが、犯罪歴のある人間は司祭にはなれないと言われてしまいます。
そこで出所時は諦めて少年院で指定された木材所へ就職にすることにします。
ですが出所してまっすぐに向かうかと思ったらそうではなく。昔の悪友の家に転がり込み、クラブで踊り、クスリ、酒、適当な女とファックとやりたい放題。ラリってダウナーのまま翌日起きてきたかと思えばおもむろに司祭の服を着てふざけだし、なんとなく悪友を殴って追い出される。
仕方がないので木材加工所へ向かいます。バスの中でもダニエルはタバコを吹かしながらやる気なくだらけています。「マジだりぃ」を体現したらこういう感じになりそうな、そのへんにいるヤンキーです。
バスの中ではタバコを吸うなと警官に注意され、少年院から出てきたことを見抜かれます。
警官は言います。
「お前をいつでも見ているからな。見張っているぞ」
そしてダニエルは、司祭トマシュになった。

木材加工の工場について、仕事内容を知り同僚を見ると、ますますダルさが募ります。自分にとってはやりたくもない仕事であることは変わりないのです。
ふと見ると街の向こうに教会があるのを見つけ、思わず足はそちらに向かいます。教会には女一人しかおらず、その女性とちょっとした見栄の張り合いの末、自分は司祭だと言ってしまいます。司祭の服もあると。
そしたらそれを真に受けた修道女マルタ(エリーザ・リチェムブル)、奥へと引っ込み司祭夫婦を連れてきます。
なにやらオオゴトになりそうなやばい空気を感じ取るダニエル。
やっと司祭が来てくれたと喜ぶみんなに、なんとか窓から逃げ出そうとするのですが窓がはめ込みで逃げ出せず。仕方ないのでなんとかごまかしながら、逃げ出すタイミングを探ることにします。
司祭の家に連れて行かれ、翌朝司祭を探しに行くと、泥酔してベッドの横でぶっ倒れている司祭を発見します。
昨日は酒は飲まないといっていたはずなのに、酒瓶が転がり、つけっぱなしのテレビにはサッカー中継が映し出されています。
司祭も、司祭の奥方も、酒は飲んでないの一点張り。
ある日司祭が治療に行くために数日間留守にすることになり、司祭から直接仕事を数日間だけ任されてしまいます。断るわけにも行かず、ずっと憧れていた職業なのですから、仕事をすることになります。
ですが、当然司祭業務などしたことないですから、告解室で信者の罪を聞くときも、スマホでその都度調べながらなんとかそれっぽいことを言って切り抜けようとします。
しかし罪の告白に来る街の人は真剣です。司祭のフリ、司祭のテイができればいいと思っていたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)ですが、告白の内容につい自分の考えを自分の言葉で返してしまうのです。
告白に来たおばさんは、自分の子供が学校でタバコを吸っていてすごく困っていると言う罪の告白をしに来ました。ダニエルは自分の経験をさもこういうのはやめ方があるんですと知ったかぶっていいます。
「めちゃめちゃ強いタバコを与えよ。さすればやめられん」
その後もおばさんの話は続きます。よくよく聞いてみると、おばさんは子どもを叩くことがあること、おばさん自身もタバコを吸っていることなどがわかってきます。
「子供との償いに一緒に一度サイクリングに行ってみましょう」
図らずもおばさんは、この無邪気で形式張っていないニセ司祭の言葉で自分でもわからなかった自分の中の罪悪感の正体に気付かされたのでした。
ニセ司祭ダニエルに次にやってきたのは説教でした。
前日にスマホで調べ本を読んで予習しますが、本番になったら全く言葉が出てきません。
言葉に詰まるダニエル。静まり返る教会。ダニエルは言います。
「沈黙も祈りである」
ただのハッタリだったのですが、その後は丸暗記したものは全て捨て、ダニエルは自分の言葉で説教を始めます。その説教は街の人の心に響きます。自分の気持ちで自分の言葉で伝えるからこそ、芯のある言葉となったのです。
街の人も観客もこれで気づきます。
ダニエルの信仰への情熱は本物であると
癒やされぬ傷を抱える人々

街を歩くと街の外れで毎日祈る人々を見つけます。その村では数年前、悲惨な交通事故があり、6人の少年少女たちが亡くなっていました。遺族たちは今も変わらず悲しみが癒されないままの日々を送っていることを知るのです。
遺族らは事故から数年たつ今でも彼ら彼女らの写真を飾った手作りの掲示板のような慰霊碑の前で、ろうそくに火を灯し毎晩毎晩彼らを弔っています。
ダニエルはそんな彼らを救いたいとほんとに純粋な気持ちで思い始めます。ある日彼らを集め、思いを載せて大声を出させます。大きく息を吸って吸って吸って、、さあ声を出して!ガァーーーーーーーッ!傍から見たら恥ずかしい。何をやってんだ?という光景です。
ダニエルがやらせていたのは少年院で自らが行っていた発散法でした。最初の説教も少年院に来た司祭の言っていた内容のアレンジでした。
恥ずかしいだけだと思われたその発散法は、あるおじさんの気持ちを引き出すのでした。
みんなやり場のない怒り、どこに向けたらいいのかわからない恨みを持っていたのです。
そんなとき町長がやってきて、新しい工場の竣工式にお祈りをしてくれないかと頼まれます。
新工場は、ダニエルが本来働くべき場所である木材工場の新工場でした。
その工場の竣工式の説教で、交通事故で亡くなった6人のことを盛り込みたいと町長に相談します。
町長はもうその話は蒸し返さないでくれと突っぱねます。ですがダニエルは引きません。
町長は脅しに入ります。
「おれはいつでもお前を解雇できるんだぞ。」
ダニエルは言います。
「あなたには権力があるのだろうけど、私の言っていることが正しい」
竣工式では交通事故の話はしませんでした。ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は地面にひざまずいて祈ります。参加者にもそれを強要するのですが、だれも躊躇なくそれを受け入れます。
前日に雨が降っていて地面がびしょびしょに濡れているのに、です。一発で街の人のダニエルへの信頼が伝わってきます。
町長はそれを見てしぶしぶ従うのですが、その後に行われる説教で心を鷲掴みにされてしまいます。まるでさっきの二人の会話を戒めるかのような内容なのです。
しかしその説教が胸に響くのは、身分を偽ってニセ司祭を演じるダニエルが自分自身に向けて赦しを乞うようなものであるからでもありました。
まったく言葉に嘘がないから人の心に届いてしまうのです。
それは自らの信仰心からダニエル自身が神に許しを請うものであろうとも。
このようにこの映画は二重の意味が含まれているシーンがふんだんにあります。
たとえそれがアンビバレントな内容であろうとも、通底しているのは信仰心、人としての正しさ、規範と倫理、などの意味で包括されているにみえます。
犯罪者か、聖人か

竣工式が終わり、工場見学のところで少年院の知った仲間を目撃します。その場を早めに切り上げてダニエルは立ち去ります。
ですが結果的にバレて、少年院のやつに脅迫されます。
「10万ズロチ出せ」
次のシーンでは信者からお布施をもらいに席を回るダニエルが出てきます。
さらにその次は街のお祭りで町人と一緒にダニエルははしゃいでいます。
修道女マルタの歌が終わったあとおもむろにダニエルは壇上に上がり言います。
「彼の埋葬をします。集めたお金はその埋葬費に充てます。以上です。」
唖然とする町人。
実は、交通事故の犠牲者は6人ではなく7人で、対向車にはおじさんが乗っていました。町人の祭壇にはその人の写真はなく、町内の墓地には彼は埋葬してもらませんでした。
すべては彼が対向車線にはみ出してきて少年少女たちが乗っていた車とぶつかったと信じられていたからでした。
事実確認はできていないのに、町人の間ではそれが常識になっていて、対向車は加害者、少年少女たちの車は被害者であると思われてきたのです。
少し前に、ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は遺族たちから遺品をあつめる活動をしていました。その中には仲間内のスホもあり、そこには少年少女たちが車に乗る3時間前に薬をキメて酒を飲みラリっているうえに泥酔状態でいる姿が写っていました。
持ってきたのはマルタ。二人は何も言わずに遺品箱に入れます。
重要なのは事実ではなく、残されたものの癒やしなのだと言い聞かせるように。
同じ街に住んでいる加害者側とされるおじさんの奥さんところに遺品を集めに行ったときにその気持は変わります。おばさんが遺品として持ってきた箱の中には手紙の束が入っていました。
この手紙の束は街の人から彼女の家に送られたもので、その全てが彼を罵倒するようなひどい内容のものでした。彼女は言います。
「彼は4年禁酒していた。酒を飲んでいたなんてありえない」
その手紙の中には司祭の奥さんのものも入っていました。
遺族たちは司祭に抗議に来ました。私達は彼を埋葬するためにお金を出したんじゃないと。そこでダニエルは修道女マルタと一緒に手紙の束を一人一人に手渡していきます。もちろんそこには司祭の奥さんもいました。彼女にも手紙を渡すのでした。
彼らの罪は白日のもとに晒されたのです。
全てがぶち壊しだ、完全にぶち壊しだ。
神の御加護を

その夜、修道女マルタ(エリーザ・リチェムブル)は教会を家出し、ダニエルの家に向かいます。その夜、彼と体を重ねるのでした。
その晩、何者かによってダニエルの家の横の納屋が放火されます。納屋は全焼。その中にある遺品もすべて燃えてしまいました。
翌日、警察が捜査に来ます。修道女のおかげで切り抜けましたが、身分証の提示が出来ない司祭を警察は訝しみます。
混乱し始めた町内を収めるため町長が動きます。その中でおばさんの家に行き話を聞くことになったのですが、そこでさらに衝撃的な事実を知ります。
事故当日、夫婦は大喧嘩をして、旦那はそんなことなら自殺すると捨て台詞を吐いて出ていったと。
車と車が正面衝突だったと言うことはわかっているがそれ以外は判然としない事故の真相がいよよわからなくなってきました。もうこうなっては完全に真相は闇の中です。
おおきな混乱を招きつつも、葬儀と埋葬は執り行われました。彼はようやく町人と同じ墓地に入ることができたのです。ただその葬祭が発端となり本物の司祭であるトマシュ司祭が現れてニセモノであることが完全にバレてしまいます。
トマシュ司祭は最初ガチギレしていましたが、ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は少なくとも街の人々に慕われているという事実を知り、言います。
お前は罪に問わない、俺は何も見ていなかったことにしてやるから、最後に私を紹介してお前は教会を去れ
ダニエルは説教を待つ町人の前に出ていき、何も言わずに服を脱ぎ、上半身裸になります。その体には聖職者にはあってはならないはずのタトゥーが刻まれていたのでした。
右胸には共産主義のシンボル、鎌とハンマーもしっかりと刻まれていました。
何も語らずとも、街の人々は何が起きていたのかをすべて理解しました。まっすぐに出口へと向かう彼に誰も声をかけず、ただ無言で見つめることしかできませんでした。しかし一番彼のことを嫌い疎ましく思っていたはずの司祭の嫁は、涙ながらに最後にこう声を掛けました。
「神の御加護を」
少年院に戻った彼は、10万ズロチを要求され、そこで一緒に酒を飲んだあいつの隣に座ります。あいつは一回飲んだくらいで友達ズラすんじゃねえとかましてきます。
そんな彼にダニエルは言います。
「俺を売ったな?」
動揺を隠せませんが彼は言います。
「どっちにしろ、明日決闘だ」
彼を殺すつもりで待ち構えていた男と決闘します。ダニエルは寸前で逆転し、奴の頬の肉を食いちぎって、彼を殴り殺します。
「お前はここにいなかった。お前は何も見ていない」そういって彼だけ小屋から締め出され、ふらふらと少年院の敷地内をさまようダニエル。
背後では看守が駆けつけ、混乱と喧騒がはじまろうとしていました。
『聖なる犯罪者』の寸評

人間として、正しいとはなんなのか。人間にとって信仰とは、なんなのか。そんなテーマなんであろうと思います。
率直にめちゃめちゃおもしろかったです。
ヘイターはかなり後味が悪い作品で、人間の悪意を煮詰めて煮詰めて純度をあげて結晶にしましたみたいな映画だったので、この作品は救いがあってよかった。
今作のほうが前作よりもより洗練されている印象を受けました。
気になったことや言いたいことはたくさんあるのですが、書くとしたらまた別の記事でまとめたいと思います。
一つのシーンでダブルミーニングになっているシーンがたくさんありますね。
司祭という役職を罪人という人間が演じる(偽る)というこの映画の根本がすでに相反するものを同時に行っているという意味でいたるところにアンビバレントな状況があるこの映画の構造を表している気がします。
これはダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)の葛藤の象徴でもあるんでしょうね。彼の葛藤であり、それはすなわち見ている私達に向けられた倫理的葛藤でもあるんでしょう。おそらくそれらを含んでいるんであろうと思います。
その方が主人公の葛藤が伝わる。主人公の神聖さもより際立つ
監督であるヤン・コマサはインタビューでこう言っています。
「(これは映画であるから)人の精神的な価値について語る場合には、最悪の状況に陥らせる必要がある。そこで真価が問われる。直接的に語るだけでは精神的な価値が見えてこない。
現実の世界では違うが、映画においては主人公がキレて攻撃的になったり、妥協したりする姿を見せたほうがいい。その方が主人公の葛藤が伝わる。主人公の神聖さもより際立つことになる。」
非常にいい映画でした。
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